だって、確かに聞こえたんだもん、啜り泣くような甲高い女の人の声がぁ!
枕元に座り込み、可憐な少女のようにえぐえぐと泣く雪之丞を横目で見やり、蘭丸は呆れたように肩をすくめた。
事の次第は5分前。半端な時間に目が覚めた雪之丞は、びくつきながら用足しに廊下を歩いていた。
その時どこからともなく泣き声が聞こえ、竦み上がって逃げてきた、らしい。
「寝不足は美肌の敵だっつーの…」何で自分のところに来たの?と気怠げに問う。
他二人のほうが遥かに適役だろう、そういう類は。
「恭平いなかったんだもん!武長は全然起きないし…」
目蓋を乱暴に拭い雪之丞はぶすくれた。
「ふぅん、珍し。てかどーせスナコちゃんがまたホラーでも見てるんじゃないの?」取合えず夢の世界に戻りたい蘭丸は布団に潜り込みながら投げ遣りに返す。
「そぉいえば、スナコちゃんの部屋の辺りだったかも。。。でも恐いんだよぉ〜、お願いだからついてきてよぉ!」
一瞬納得した雪之丞だが、すぐに大粒の涙を溜めて蘭丸の布団を剥いだ。
こうなるとうんと言うまで離れない。「分かったって…」ふと有り得ない考えが頭を掠めたが、ゆるくかぶりを振って追い払い、蘭丸は布団を出た。
“まぁ、最近仲はいいとは思うけど、無い無い”

しんと冷え込む廊下は静かで、遠くに風が鳴っている。
雪之丞は相変わらず涙目で蘭丸の袖を掴みびくびくと辺りを見回している。
ちょうどスナコの部屋に差し掛かった辺りだろうか。「んっ…ぅ…」それは唐突に耳に飛び込んできた。
やっぱり、と叫びかける雪之丞の口をはっしと押さえ、蘭丸は耳を澄ました。
間違いない、これは…
「まじすか」取合えず、一旦ここを離れなければ。お子ちゃまには刺激が過ぎる。「んーっ、むー!」暴れる雪之丞を何とか引きずり手洗まで連れていく。

「ぷぁ!ほらぁ、やっぱ…」「しっ!」騒ぎ立てようとするのを遮り、蘭丸は雪之丞に耳打ちした。
「あれ、ホラーDVDだ、おばけなんかじゃないって」「でも…」言い淀む雪之丞に、最近子猫ちゃんと見たやつだから聞き覚えがある、間違いないと言い包め、
「だから大丈夫だって、おばけじゃないって分かったしもう平気だろ?恐かったら帰りはスナコちゃんの部屋を避けて戻れよ。俺は美貌の為にもう戻って寝るし」とさらりとまくしたてた。
我ながらとっさによくもまぁ口が回るものだ、日頃の行いの為せる業かと頭の隅で思いつつ。
「…わかったよ、蘭丸がそう言うなら…」雪之丞は訝しげではあったもののやはり恐怖が勝ったのだろう、
俺が用足すまではここで待っててね、と言い残し手洗に消えた。
「さて…どうしたもんかな」部屋を空けている恭平、スナコの部屋から漏れ聞こえた吐息。いやはや、事実は小説より奇なり、とはよく言ったものだ。
「いつの間に、ねぇ。まったく」乃依が知ったら狂喜乱舞するだろう、間違いなく。
にやける口元を押さえながら考えを巡らせていると、用を足した雪之丞がせかせかと出てきた。
「何にやにやしてんの、蘭丸」そう言えば、さっき“まじ”とか言ってたけどなんのこと、と用を足し多少落ち着いたのだろう、幾分冷静に尋ねてくる。意外と耳聡い。
「あぁ、あれ」最近発売になったばっかの奴なのに、意外とフットワーク軽いなスナコちゃん、と思ってね。と適当に受け流し、
俺も用足してくから良い子はさっさと戻って寝なさい。と雪之丞をやんわり追い立てる。 眠気が戻ってきたのだろう、はぁいとか弱く呟いて部屋へ戻る雪之丞の背中を確認すると、蘭丸はゆっくりとした足取りでスナコの部屋に向かった。
「まぁ、恭平も若いしそろそろ終わっただろ」自分が同世代だという事実は棚に上げている。

“スナコちゃんのお部屋”とシンプルなプレートのかかった扉の前に差し掛かると、そこはひっそりと静まり返っていた。
一応レディの部屋である、いきなり踏み込むのはマナー違反、とドアを何度かノックする。が、返事を確認せず、静かにノブを回した。
「恭平〜?レディをあまり泣かせちゃダメだよ〜」ぎくり、と一瞬背中が強ばったのを視界に認め、蘭丸はほくそ笑んだ。
「てめ、何でここに」「いや〜?たまたまトイレに起きてみたら可愛らしい声が聞こえてね、」「!!!」恭平が一瞬体を強ばらせ、赤くなった。
「うっせ」ぷいと背けた横顔の耳が赤い。いいねぇ、甘酸っぱいねぇ、と一人ごち、さてどこから突いてやろうかと視界を彷徨わせた先に蘭丸は思わず目を奪われた。
はらりと流れる絹糸の髪。ひっそり閉じられた目尻にはほんのり桜色を散らしている。
毛布の上からでも分かるすんなりと伸びた肢体のまろやかなライン。
こんなにきれいな子だったっけな、としばし見惚れていたようだ。「見てんじゃねー」地の底を這うような低い恭平の声に、蘭丸はふと我に返った。
「あぁ、ごめんごめん、お邪魔しちゃったね」背中に冷たい汗が伝うのを感じ、蘭丸はこれ以上の追求を断念した。
「分かってんならさっさと帰れ」剣呑な雰囲気を漂わせる恭平に本気で身の危険を感じ、蘭丸はおとなしく引き下がることにした。
このままでは本当に殺されかねない。「はいはい、邪魔者は退散しますよ」ひらひらと手を振りそそくさと部屋を出る。
「夢中になりすぎてあまり泣かせ過ぎないようにね〜」「てめっ…!」捨て台詞を吐く位は許されるだろう。
再び真っ赤になって怒鳴りかけた恭平にウィンクし、蘭丸は静かにドアを閉めた。
「はぁ〜、反則でしょ、あれは」ベッドにぼすんと身を投げだし蘭丸は一人ごちる。
からかってやるつもりだったのに見事にあてられている自分に苦笑した。おかげで一人のベッドが妙に寂しくて仕方がない。

肌が荒れる、と無理矢理言い聞かせ目蓋を閉じる。
が何故か浮かぶのは愛おしそうにスナコの頬を撫でる恭平の顔で。
「…」がばりと跳ね起き携帯に手を伸ばす。まだ夜明けまでは程遠い。
「朝一で電話したらどんな反応するかな…」液晶に浮かぶ玉緒の番号を見つめ、蘭丸は浅くため息を洩らした。

翌朝、気怠げながらも気丈に朝食を用意するスナコと妙に落ち着きのない恭平、珍しくやつれて隈を浮かせた蘭丸に、
雪之丞と武長が訝しげに顔を見合わせたのは、また別の話。

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